赤飯を炊いた日の、少しだけ後悔している話

茶碗のお赤飯 台所しごとと日々ご飯

母が亡くなり実家の整理をしていたとき、戸棚から使いかけの餅米が出てきました。
袋の口はきちんと閉じられて、大事そうに保管されていました。
あの家の台所には、こうして「これから使う予定だったもの」がいくつも残っています。
これまで餅米を自分で料理したことはなかったんだけれど、そのままにしておくのも忍びなくて、持ち帰ることにしました。

何を作ればいいのか悩んだので、レシピを検索します。
すると、家にある材料で作れそうなものが見つかりました。
赤飯です。
お菓子作りのときに使った小豆がいくらか冷蔵庫に残っており、これもきっと何かの縁だろうと思い、赤飯を炊いてみることにしました。

餅米を研ぎ、小豆を下ゆでします。
いつも作る白いごはんとは違う手順に戸惑いながらも、台所に立つ時間は不思議と落ち着いていました。
小豆を煮ているあいだ、ふと思い出します。母は、たまに赤飯を炊いては持たせてくれました。特別な日でもなんでもないのに、「炊いたから」とだけ言って渡してくるんです。
そんな時、私は仕事帰りに実家へ寄るのが面倒で、「いらないよ」と断ることがしばしばありました。
あのとき、どうして断ってしまったんだろう。

炊き上がりを待つ時間、家の中は静かでした。
湯気の匂いと、小豆の甘い香りが少しずつ広がっていきます。
出来上がりの正解がわからない料理は、どこか心もとないです。
鍋の蓋ごしに、ほんのり色づいた赤飯が見えました。思っていたよりも、ちゃんと赤飯の姿をしています。
ほっとしたような気持ちになりました。

茶碗によそって一口食べてみます。
やわらかさも味も、特別に上手にできたわけではありません。
でも、まずいわけでもありません。
ただ、比べるものがないのです。

母の赤飯は、どんな味だっただろう。色は濃かったのか、塩気が強かったのか、豆はもっと柔らかかったのか。
思い出そうとしても、はっきりした記憶が出てきません。あんなに何度も食べていたのに。

もし、あのとき一度も断らずに受け取っていたら、味の記憶は残っていたのでしょうか。
今さら考えても仕方がないことを、ぐるぐると思い続けてしまいます。

料理は、誰かのために作られたときの記憶と一緒に残るのかもしれません。
作り方ではなく、受け取った時間や会話の断片と結びついて。
今日の赤飯は、母の味に近いのかどうかももう比べられません。 けれど、餅米の袋を見つけた日のことや、検索しながら戸惑った時間、小豆を煮ていた台所の静けさは、きっとこれから先も思い出せる気がします。

料理は上手くならなくてもいいのかもしれません。
こうして暮らしの中で手を動かしながら、誰かのことを思い出す時間があるなら、それだけで十分なのだと思います。

みいやん
みいやん

台所に残っていた記憶の話です。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ シンプルライフへ
にほんブログ村

お読みいただき、ありがとうございます。今日の台所の出来事を、そっと置いていきます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました